ふいちゃんの中国日記

つれづれ編

晩秋の御勅使川周辺

2014年12月12日


戦国武将武田信玄は今なお山梨県に多くの功績を残している。中には何でもかんでも武田信玄に結び付けた物もあるという説もあり、真偽のほどはわからない。

たとえば、山梨県北杜市の三分一湧水。水争い対策としてこんこんと湧き出る八ヶ岳の伏流水を均等に三分流して下流の田んぼを潤す。武田信玄が作ったと言われているが、信玄以前からあったという説もあるらしい。

山梨県南巨摩郡身延町の下部温泉は信玄の隠し湯と言われるが、じつはそうではなく戦後、下部温泉を売り出す宣伝文句として「信玄の隠し湯」をうたったというのが有力らしい。

長野県の「奥軽井沢」も全然別の地名だったのを「奥軽井沢」に変更したら多くの観光客が訪れるようになったとか。

武田家は織田信長に滅ぼされたが、最終的には徳川家康が甲斐の国を治めるようになった。家康は信玄から多くのものを取り込んでいる。治水、金山、城下の道路構造等々。わたしは徳川幕府の隠密作戦(各藩へ送られて親子代々土着して情報収集活動をした)も信玄の方法を取り込んだものであろうと考えている。佐渡の金山は信玄の元で金採掘に従事していた技術者たちを派遣して始められたという。

旧東海道を歩いていると、ガイドから徳川家康が作ったと説明される、宿場町の道が右に直角に曲がりそしてすぐに左に直角に曲った構造で先の見通しがきかない所がある。じつはこれも信玄が作った構造を取り入れたもの。攻め込んだ敵からすれば道の曲がった先に何が潜んでいるかわからないというのは大変な不安であったに違いない。
以前、山梨県御勅使川は暴れ川で釜無川との合流点は平野部にあったそうだ。そのため大雨で大洪水となった御勅使川は釜無川を突っ切って甲府の町中へ流れ込み大被害をもたらしていたという。

そこで信玄は御勅使川の川筋を変更し釜無川の少し上流でむき出しになっている強固な岩盤のところへ水が当たるようにして水の勢いを弱くした。さらに釜無川の甲府寄りに2番堤、3番堤を構築して治水を図った。
今回は徳島堰と御勅使川、釜無川を巡る16kmのウォーキングである。