ふいちゃんの中国日記

つれづれ編/フットパス編

武川町 中山砦

2017年8月3日




2017年6月9日、北杜市武川町の中山砦と白州町の展望台ウォーク2.5km。

短いけれど全工程が山の中。

車を降りるとすぐに登山道である。

以前一度今回と反対方向から登って来て今回の入口方面へ降りてきたことがある。
そのときは道は整備されてなく、展望台も高い木々の中に埋もれていた。今回、展望台のまわりの木々は南方面と北方面とが伐採され、すばらしい展望が開けていた。東西方面も伐採されれば往時の4方向監視塔としての機能が蘇る。

①武田家が滅び、織田信長が「本能寺の変」で自刃した後、空白となった甲斐の国を争う徳川軍と北条軍との戦いで、南から上がってきた徳川軍は新府城に本陣を構え、信濃から南下した北条軍は若神子城に本陣を構えて対峙した。武川衆の柳沢信俊と山高信直は徳川軍の最前線として中山砦に籠り、七里ケ岩台地上の守りを固めた。

②台地上からの進路を遮られた北条軍は釜無川沿いの谷に活路を見出そうと花水坂を下りてきたところを中山砦の麓に伏せていた柳澤・山高軍により進路を阻まれた。これが世にいう「花水坂の戦い」である。こうして甲府へ侵攻する全ての道を閉ざされ、背後の補給路も津金衆らによって断たれて窮地に陥った北条氏は和睦を申し入れることになった。(①②の出典不明:当日の配布資料より)

こうして見ると、中山砦と武川衆、津金衆は徳川家康の天下統一に多大な貢献をしていることがわかる。その後、武川衆は武士になり、水戸黄門によく出て来る「老中柳沢吉保→甲府藩主」がその一人である。津金衆は百姓に戻ったのではないかとのウォーキングリーダーの説明であった。
現在、史跡中山砦跡は武川町で、すぐ近くの展望台は白州町である。中山砦跡へ着いた時、突然足元から雌の雉が飛び立った。先行の数人がその巣の横を通り過ぎたときはじっと様子を窺っていたのであろう。わたしは前に進めなくなり立ち止まって、たまたま巣の方向に右足を一歩踏み出した途端、ものすごいスピードで雌雉が飛び立ったのでびっくりした。巣には6個の卵があったがじつはさらに1個は1mほど左に飛び出ていた。雉が飛び立つとき何かの力が働いて卵を飛ばしてしまったのであろう。


わたし達一行は短時間でそこを離れ展望台へ向かった。

帰りは中山砦跡の北側にある空堀跡を通ったので雉の状況はわからないが、雉は戻ってきたのであろうか。



それにしても中山砦跡を目指して登ってきた人は必ず通るであろう砦跡の所で卵を温めているとはそれまでよほど人が登って来なかったということであろうか。