ふいちゃんの中国日記

生活編/気をつけよう

面子

2006年1月7日

 日本でも“面子をつぶされた”とか“面子をなくした”などという。日本では“面子をつぶされる”ことに麻痺している人が増えているようだ。こういう人は他人の面子をつぶすことをなんとも思っていないのかもしれない。しかし、相手が中国人となるとこれは意味がぜんぜん違ってくる。中国を200〜300回訪問したと自慢するような日本人でも平気で中国人の面子をつぶすようなことをしている場合がある。訪問した回数と中国をそして中国人を理解することとは比例関係はなさそうである。
 中国人にとって面子をつぶされることは絶対に受け入れられないことで、これは社会のどのような階層でも共通している。面子をつぶされたと感じたら、その人は面子をつぶした相手を一生恨むであろう。そしてこの感情は普段深く潜行していても突如顔をだす。感情だから理屈で制御できないのである。
 よくいわれるのは中国人を人前で注意したりしてはならないということ。そういうときは本人だけそっと呼んで注意する。そういう配慮をしてあげれば彼らも素直に話を聞くし、また反省もする。それをいきなり会議の席上とかで注意されると相手がだれであろうと牙を剥いた狼のように歯向かってくる。ところが通訳が必要なときはそっと呼んで注意するということができない。業務上知りえた情報を他人に漏らさない口の堅い通訳というのは案外すくないのである。通訳という第三者が介在することにより“人前”に近い条件になっている。よくよく場の設定に配慮しなければならない。
 公の会議上で根拠なく相手方の悪口をいったり、批判したりするのはご法度。大喧嘩になって会議が決裂するか、“合作”が破綻するかであろう。この面子というのは非常にやっかいで、日本人には理解しづらい面もある。たとえばこういう経験もある。樹脂成形用の金型見積折衝で、ある線まで値引きしなければならないということがあった。そういうとき、相手方が容易に受け入れてくれないことはよくあることで、要求と回答が不一致で交渉が膠着状態になることがある。
 そういうとき同行の者が“領導の面子をつぶさないでくれ”と言う。つまり“領導”が部下の同席している前で要求をあっさりけられたら“面子がなくなる”という理屈のようなのである。日本人のわたしから見ると要望をのんでもらえなくても“面子をつぶされた”とは感じないのであるが中国人にとってはぜんぜん意味が違うようで、この効果は抜群である。
 “面子云々”の一言で、それまでこれ以上は絶対さげられないと頑張っていた相手方が約12%に相当する10000元をあっさり、ぽんと下げてきたことがある。“面子云々”をいったわたしの部下も驚いたようだが、それ以上にわたしのほうが“ずいぶん下がったな”と内心びっくりしたものだった。これでわたしの“面子が立った”わけで、タイミングよく使えば便利で効果が大きい武器にもなるのである。

  【註】
     面子 mianzi ミエンズ 面子
     合作 hezuo ホウツオ 協力(する)、提携(する)
     領導 lingdao リンダーオ 指導者